1.糸数アブチラガマの場所


糸数アブチラガマの場所
本島南部 糸数城址を目指して行けば分かりやすかった。

2.糸数アブチラガマに入るには?

事前予約が必要

糸数アブチラガマに入るには、原則として事前予約が必要
糸数アブチラガマ案内センターから申込書をダウンロードできる。

個人でも申し込み可能

修学旅行の平和学習として利用されることが多いが
個人(1人)でも申し込み可能だ。
ただし1人でもガイド料1,000円かかる。
一般の観光ツアーで
訪れることはあまりないようだ。

ガイドと懐中電灯

ガイドなしで入ることはできない。
懐中電灯は必要
(足元を照らす位の明るさが必要 確かレンタルもあった)
中は恐ろしいほどに真っ暗だ。

入壕時間 入壕料 ガイド料 見学時間

入郷時間 9:00~17:00 年末年始は休み
入壕料 大人250円 小人100円
ガイド料 1,000円
見学時間
ざっくり1時間ほどだが、15分前までに集合

その他 注意点

壕内撮影禁止

壕の入口や外の撮影はOK

ヘルメットやスニーカー

見学ルートが確保されているとはいえ
ほとんど当時のままの状態
岩に頭をぶつける恐れもあるし、足場もよくない
もちろん ガイドの誘導に従う。
ヘルメットは無料で貸し出してくれた。

遺品に触れない

言うまでもないが遺品を持ち出してはだめ


ここで受付 ヘルメットの無料貸出しがある

3.糸数アブチラガマに訪れて

国道331号線から南城市役所方面に曲がる

ガイドブックには紹介されておらず、たどり着くのにも一苦労した。
まずは国道331号線を走る
ひめゆりの塔平和祈念公園  斎場御嶽といったスポットを結ぶ
南部観光のメインストリートだ。
そこから南城市役所方面に曲がるのだ。
のどかな畑に囲まれた道(県道48号線)を走る。

糸数城址方面に曲がる

県道48号線を進むと「糸数入口」という交差点がある。
そこを右に曲がり、糸数城址を通過してちょっと進むと
糸数アブチラガマ券売所と書かれた看板がある。
ここの駐車場に車を停める。

路線バスの場合

交差点糸数入口付近にバス停がある
ここから15分ほど歩く


周辺はこんな感じ

南部観光総合案内センター

糸数アブチラガマの出発点が
南城市南部観光案内センターだ。まわりはのどかな風景
さっき訪れた斎場御嶽とは裏腹に人っ子一人いない
無理に見学をお願いした
実は事前予約していなかったのだ。
ドライブ中 たまたまラジオで紹介されたので立ち寄ってみたのだ。
受付でお願いしたら、たまたま、見学者がいて
壕を案内中、終わったら案内できるとのこと
偶然にも見学を受け付けてくれた。
ガイド料1,000円と入壕料250円を払う。
懐中電灯は持参の自転車用LEDライトしよう。
車に戻りサンダルからスニーカーに履き替える。


南城市南部観光案内センター

ビデオを見る

前の人の見学終了まで時間があるので
アブチラガマでの証言ビデオを見せてもらうことにした。
約150名の日本兵のうち生き残ったのは7人だ。

案内センター内部

平和学習の場 子供たちの感想文や
紹介文などがあちこちに掲げられている。

最初に簡単な説明

糸数アブチラガマに入ることになる。
まずは、糸数アブチラガマの説明
簡単にまとめると
全長270mほどの自然壕である。
昭和19年頃
アブチラガマ陣地造りが始まる。
また
糸数村民の指定避難場所にもなる。
昭和20年3月
艦砲射撃が始まり約200名の村民が避難

当初 ガマの中には
発動機があり、電線が引かれ明るく
多くの軍事物資の食料もあった。
また、壕の中には井戸もあり
命をつなぐ人もいた。

しかし

昭和20年4月
発動機やその他物資を持ち
軍は首里へと向かった。
暗闇となる

昭和20年5月
病院壕となる
軍医やひめゆり学徒隊らが入る。
多くの負傷兵が運び込まれた
5月下旬
撤退命令
動けない患者を残し南部へ撤退
糸数村民も
「どうせ死ぬなら故郷で死にたい」
という事で壕に残る人がいた。
しかし
それが命をつなぐことになった。

5月下旬から壕近くまで米軍が攻めてくる
6月には壕も米軍の攻撃が始まる。
(黄燐弾や至近弾 ガソリンが入ったドラム缶が流しこまれた)
次々に負傷兵や住民が死んでいく

8月22日
避難民や負傷兵が壕に出て米軍の収容された。


大砲と魚雷が展示されていた。
(このあたりにも大砲2門配置されたが、アメリカ軍とあまりの物量の差があった)

ガマの中に入る

ガマの中に入る。中は真っ暗で、底知れず恐怖を感じた。
ゴツゴツした岩や爆風よけの石積みが積まれていた。


ガイドの案内でガマに入る

当時の遺物

最初に見たのが当時の遺物である。
靴底や瓶のような物 その他いろいろある。

ひめゆりの仕事

昭和20年5月には病院壕となり
軍医の他、ひめゆり学徒も入る。
ひめゆりの仕事は汚物処理や水汲みなど
汚物はペットボトル10本分の重さ
足場が悪く、転んでかぶることもったとか
もちろん 身体を洗う所はない。
外出て水汲みをするのは命がけであったが
幸いにも糸数アブチラガマには壕内に井戸があった。

唯一やすらぐ場所

狭い通路となっている場所
監視兵の目が届かず 唯一やすらぐ場所であった
とはいえ
寝ころべるわけではなく
立ったまま寝た。

手術室

治療といっても手足の切断のみ
麻酔がない状態で凄まじいうめき声であった。
ひめゆりは手足を押さえる作業もした。
岩の上にも負傷兵が収容されたとか

第3号室

助かる見込みのない人が収容された。
手当もされずそのまま放置
ここからは 鉄血勤王隊(中学生の少年兵))
らが「お母さん」と呼ぶ声など聞こえた。
元ひめゆりの人は今でも近づきたくない場所とのこと

ここでは一番多くの遺骨が収容された。

懐中電灯を切る

ガイドの案内でここで懐中電灯を切る。
全く何も見えない。
ここで多くの人が死んでいったのだ。

恐怖から悲しみに変わる。

井戸

糸数アブチラガマは幸いにも中に井戸があり
壕に残った住民や負傷兵の命をつなぐことになった。
今は綺麗な水が流れているが
汚物が入りひどい状態であった。

遺体収容所

ガマは二重三重となっており、遺体はそのまま
壕の底に捨てられた。
ガマの底にはまだ遺骨があると言われている。

空気孔

ガマの中にはいくつかの空気孔がある。
懐中電灯を消してみると、本当に小さな光がみえる。
しかし
壕の中では希望の光であったとか

監視所で出口

出口には監視所があり、銃を向けられていたとか
沖縄弁を話したことでスパイ容疑をかけられて
住民が射殺された事件もある。

ガマから出る

ガマから出る。強い日差しである。
8月22日ガマを出たとき、涙を流したという。

慰霊碑

ガマを出たところに小さな慰霊碑がたっている。
合掌をする。


慰霊碑にお参りをする

ガマの外

のどかで静かな風景が広がる。
かつてここは沖縄戦の激戦地であったことが嘘のようだ。


この下にガマがある

命どう宝

南城市南部観光案内センターに戻る
ここに書かれている「命どう宝」という文字が印象的だ。

糸数アブチラガマを後にする。

 
oito.html
くらの旅行記に戻る